おはようございます。昨日公開した山梨旅行記の続きです。なお前半は無駄話が多いので、適宜飛ばした方が楽な記事になっている可能性が高いです。ごめんなさい。

前の日の記事でも貼った、部屋から撮った甲府盆地の夜景。本当に美しい。これを今の彼女さんと一緒に見ながらプロポーズしてしまいたい。しかし私に彼女なんている訳もない。全米が泣いた。だから何が全米だよ(笑)。アメ公なんてどうでもいい(笑)。そして正直今の私は恋愛に興味がないので、死ぬまで独身の代わりに趣味を謳歌して生きていきたいと思う。

朝になりました。おはよう。朝の甲府盆地もまた美しい。その昔信玄さんが見ていた景色とは明らかに違うが、しかし同じ甲府の朝という意味では似たようなものを見られたのだろうか。

要害山という山もある。その昔、要害山城というものがあった。これは現在の武田神社がある当時の躑躅ヶ崎館が本拠地かつ政庁であった(都道府県庁と思っていただくとわかりやすいだろうか)のに対し、要害山城は最後の防御地点(防空壕のようなポジション)だったと私は解釈している。車ですぐの距離ではあるんだけど、当然信玄さんがご存命の際は自動車なんてある訳もないのでそこについて書くのはナンセンス。
実は信玄さんがお生まれになった際は当時まだ同盟を結んでいなかった今川方の武将が甲斐に攻めてきていたため、信玄さんの御父上たる信虎さんが正室の大井夫人を万が一のことがあってもとのことでこの要害山城に避難させていた。その時にまさにお生まれになったのが信玄さん(幼少期の名前:勝千代/元服後の晴信)だ。信玄さんがお生まれになったお寺に関しては後述。

お世話になった宿・要害さんの写真。今もあればなあ。またあの夜景を見に行くことは隠し駐車場を知っている私なら余裕だけど、でも美味しいごはんを食べて、いい温泉に入って、更に当時は飲めなかった山梨の酒を飲んでからあの夜景を見るのは絶対に楽しいと思う。介護施設になってしまったのが本当に残念だ。

要害山に通じる道、山梨県道31号線・甲府山梨線。このまま道なりに行くと山梨市にたどり着く。思えば免許を取り立ての時はカーシェアのE12ノートで行こうとして、しかし道幅の狭さに絶望して途中で切り返して引返していた。ノートでそれかあ(笑)。これはまたADバンで160km/h自慢をしたり陸送ストーカーの際の自らのアクセルワークに酔っていたりするプロドライバーにバカにされそうだ(笑)。そいつと違って公道での事故なんて起こしたことも無いけれど。LINEクレクレされて嫌々教えてからの半年、地獄だったなあ。

しかしこの記事の執筆日から4か月ほど前、3ナンバー車のマークXで訪れた際は無事に走破したのもまた懐かしい思い出だ。免許を取った時は山梨に住んでいたこともあって、まあカーシェアの車の全てが運転していて楽しいかはさておき、しかし山梨の山道は楽しかった。山梨県民のワーゲン率が高いのは、もしかしてそういうことなのではないかとすら思っている。あと群馬県民のワーゲン率も高いよね。愛知に関しては母数が多い上に、ワーゲンで見栄を張れると思っている馬鹿ばっかだからかもしれないけど。

いやマジでさ、俺はワーゲンが大好きではあるけど、見栄を張れる価格帯の車ではないんだよなあ。名古屋走りにはわからんだろうけど、アルテオンならまだしも、ねえ。でもワーゲンはマジでいい車を作っているし、私の原点だから、逆に「実家の車がワーゲンだからってムキ―!」となって私に嫉妬して職場いじめをしていた青信号原チャ追突ジジイあたりはバカなんだなあって思う。そいつ死んじゃったけどね。ハイ冥福(笑)
割とマジで、何だろうか、結局名古屋の人間のうち私の元バイト先の奴らのバイトってマジで車を価値でしか見ていないのが8割だったんだなあと思う。車格(笑)。うん、バカだ。一生オンボロの30前期プリウスだかn世代前のN箱だかその辺で名古屋走りをしていればいい。無論プリウスにもN-BOXにも罪はないので、この記事をご覧のオーナー様含めて真っ当なオーナー様とお車を悪く言う気はないが。
閑話休題。信玄さんがお生まれになった積翠寺(せきすいじ)に家庭訪問させていただこう。

信玄さんがお生まれになったということがわかる。何百年も前、信玄さんはまさにここでお生まれになったのだ。それだけで満足できるし、免許を取ってから何回も訪れている。同じ場所で同じ空気を吸っている、それだけでいい。

信玄さんの産湯に使われた宿。

お世話になった要害さんの看板。地味にEV充電ができるのが草。
さて、武田神社参拝を済ませて甲府駅近辺に戻ってきた。一応書いておくが、所謂戦国時代の甲斐国の府中、つまり「甲府」は現在の武田神社がある一帯のエリアだった。そこを城ではなく館として運営していた信虎さんと信玄さんがすごいってのはまた書くとして、しかし信玄さんの有名な名言「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」というのは現代にも通じていると思う。それはまだ25年しか生きていないガキの私が言うことではないのかもしれないけれど。もっとも、情けをかけても味方にならないようなクズは多数いるので、そういうのを片っ端から脳内で56してブログネタにしているあたり、私もまだまだだ。
これから先、私のパワースポット第一位として武田神社がランクインすることを当時の私はまだ知らない。志望校の1つに落ちたのを知ったのは武田神社の境内だったし、同神社での厄払いの数分後にスマホを道に落として当時の私の腹筋ばりに画面を割ったこともあったが、しかしそれ以上のご利益を沢山いただいた。スマホを落とした10分後に松井玲奈さんのスピカツアーに当たったのでむしろ最後の厄落としだったと思っているけど。

さて、私の信玄さん愛が並大抵の山梨県民をドン引きさせたところで甲府駅に来ました。当時は高崎車両センターのEF64が常駐していたのだけど、というかまあそれが個人的には今でも当たり前なのだけど、この時の担当は1052号機。私がこの1年と少ししてから甲府に進学して1052号機を撮った際は1001号機の茶釜(またの名をうんこ鉢巻)を引き継いでこの塗装ではなくなってしまっていたが、それはまたいつか別な時に言及しよう。

平成28年当時に高崎機関区に所属していた機関車のうち、EF64形の37号機、1052号機、そして1053号機はかつて長岡車両センターに所属し、寝台特急あけぼの号の牽引を担っていた(1000代は北陸も牽引しつつ、しかし38号機は代走?で北陸にも充当されていた。この辺については文献が出てくるまでは封印)機関車。37号機は北陸廃止、1052号機と1053号機はあけぼの廃止のタイミングで高崎に転属。以降は時折こうして甲府常駐の任にも就いていた。

甲府常駐、高崎のELが客レの運用すらなくなる3年半前になくしてしまったが、果たして何故だったんだろうか。スーパークモヤこそE493系とGV-E197系とキヤE195系導入のせいなんだろうか。かつて秋に甲府以西の山岳区間で貨物の空転対策としてケツに連結されていたこともあったと思うけど。ああ、でもキヤE195導入と前後していなくなったから、レール輸送の任がなくなったからなのか。

そんな1052号機が茶釜塗装となってレール輸送を担当しているのを撮った話や、ホキの廃車回送に充当されているのを撮った話、その辺はまたいつか。当時は撮るなんて思っていなかった。
甲府駅南口で昼食を済ませた後に、身延線で行ける甲斐善光寺でも行ってみようという話になった。なお身延線ではICカードを使うことができません。

でもICカードで乗ったバカがいたんです。私の親父なんだけど。運転士さん、その際は本当に申し訳ございません。

善光寺駅から歩くこと10分、甲斐善光寺に到着。なんか小便がもれそうで焦っていたのは覚えている。一説ではここに源頼朝像があるとかないとか言われるけど、すまないが平安時代・鎌倉時代は専門外なので何とも…。次にここに来るのは私が甲府市民になってからのこととなる。過去画をいじってばかりでもアレだからこれから先その時のことを焼き直すことがあるかはわからないが、しかしまあ屋台の信玄アイスは美味しかった。やっぱ山梨行きてえ。

善光寺訪問を終えて、身延線で甲府駅に戻る。と言いたいが、私は前日に嗅ぎ付けていた189系臨時でも撮りたい上にせっかくの遠征(まあ親の金だけど)なので、ここからは家族とは別行動となる。LED切っちゃいました。

なので家族と別れて撮影開始です。このN610編成、実は長野車では初めての撮影となった。それはそう、だって撮り鉄はじめて初の山梨だもの。しかしこの1年と少し後に甲府に進学した私は甲府在住時の4年間で一番遭遇したのがこの武藤だった。211系長野車のうち6両は延命工事をしていない上に高尾のホームドアの足かせとなっている以上、あと5年もないだろう。最後のその時までしぶとく追うのは千葉市民のキモータヒッキーには難しいが、しかし撮れる時に撮っておきたいし、願わくは向こうへの遠征の帰りにでも乗れたらと思う。

この日は年末、当時は知る由もなかった白馬臨が運転されていた。充当されていたのは豊田車両センター所属の189系M51編成。曲がりなりにも189系のこの塗装を撮れたのはよかっただろう。なお189系絶対運用辞めないで界隈(キモ)から絶大な支持を得ていた豊田3兄弟だが、この1年数か月後には当時房総で余っていたE257系500代を強引に強盗する形で同形式に置換えられている。

おかげさまで私も甲府1年目からこうして撮ることができたという話はさておき、しかしまあ、運命とはどうなるものかわからないものだ。E257系ヲタクなのでその話もしたいし、なんなら189系ヤクザかつ私に噛みついて来たり、身バレしながらも私と客として会話していたソイツに関してはネタにしたいとも思いつつ、この記事はそれが目的ではないので割愛。まさかあの時、あんたをネタにする店員と会っていたなんてな…ってか(笑)。いやあ、店員をバカにしていたその態度、忘れませんよ。ご冥福をお祈りいたします。
閑話休題、話を当時の電車に戻す。今回だいぶ字数がやばいな。

という訳でM51編成の団臨はさよーならー。なんだっけ、この時に嫌々つるんでいたのが就活の時にお前の家を体のいい宿にしたいなんて抜かしていたけれど、その人も死んじゃったからなあ。この時も謎のマウンティングされたっけ(笑)。
もっとも縁を切っている今はマジでどうでもいいけど、でも「縁切ってから1年以上しても」監視されていたし(笑)、もしよければ今もブログを監視(笑)していただいていたら面白いです。マジで(笑)。ご意見があれば是非コメント欄にお越しくださいませ。私も当時とは異なり社会人で忙しいので、おたくのTwitterを監視する時間がないんです。ごめんね。
そんな私はきっとこの記事を出す日あたりに札幌や石狩に出没していることでしょう。どうぞどうぞ、言いたいこともあるでしょう。是非とも貴重なご意見を。間違ってもムキ―!って飛ばしてレーパトに捕まらないでね。いや捕まってくれたらそれを撮りたいんだけどさ。

いやーやばいよね。縁切ってもらって1年、ワンチャン賭けて当時の公開垢に鍵かけてから北海道に行ったら案の定お気持ち表明して(笑)。ネトストじゃねえか(笑)。横取り10万円と同じで草。でも結局ああいうのって嫌いなはずの俺のTwitterなりブログなり監視してるんだなあとは思った。面白い、俺はいつそいつらを拘束して無理くり記事なりツイートなり無理くり見せたんだって(笑)。面白いからいいけどね。人は石垣と言いたいが、しかし平成・令和においてはストーカーになり得るのもいるのか(笑)。※そのような方々は既にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。

なのでどんどん撮っていきますね。313系3100代というレアキャラとも知らずにLEDを切ってしまった。やってしもうた。歴史に残る記録を作ってしまった。もっとやってしまっているのは、E257系との並びを撮るという思考がなかったこと。脳死じゃん。

なっつかしい!当時はまごうことなき看板特急だったE351系のスーパーあずさだ。E351系よかったよな。実はこの後に乗るんだけど、それについてはまた後述。思えば高3の勉強合宿の朝飯の時の受信料強奪売国奴野郎が運営するニュース(NHKともいう)でデビューを知ったE353系、その時の合宿も全てパーになる結果として甲府に進学した結果、今ではどっぷりと沼に浸かっていることになるなんて当時は思わなかったが、しかしE351系がいた時にこうして撮ることができたのはよかったと思う。

後続で甲府始発のかいじ116号(ぷろーばぶりー)が来た。編成はM-103編成。E257系0代をまともに編成で撮ったのはこの時が初めてだったかと思うが、それがこれかあ。色々と考えさせられる。なおM-103編成は個人的になかなか遭遇できない編成だった。中央線での運用を終えた後に秋田総合車両センターに配給されて、秋田での改造第1号となった編成でもある。外装こそ2000代初の完成形だったが、やはり無茶な工期で内装を完成させることは難しかったようで、内装には残工事があったという。60日だか90日だかでよく改造できると思ったよなJR、というのはまあさておいて。いやよくそんなんで改造できると思ったよな。誘導障害試験をクリアするまではずっと配給輸送、クリアしてからは各線区での試運転にも供された編成。でもそんなことは当時まだ知る由もある訳がない。

年末ということもあり臨時あずさ号が運転されていて、この日は189系あずさ号が運転されていた。長野総合車両センターからわざわざ送込んで運転するのもまあJRさん目線では面倒くさそうだったけど、それも今は昔。正直N102はあさま色なのであさま色以外の特急ヘッドマークはそこまでモチベが上がらないと思いつつ、しかし189系の特急運用を撮っておいたこと自体がいずれ貴重になるのだろう。この数年後に189系あずさの自由席でシャツインしてたガキとか、無札で乗ってきて車内改札から逃げ回っていたクソガキとか、そいつらよりはマシな写真だろうし。だから何でいちいちそういうこと書くんだよ(笑)。

甲府盆地を見守る山々も入れて再現像。あさま幕の方が…と思いつつ、今思えばこれもこれで似合っていた上に「当時らしかった」のかもしれない。もっとも鉄オタ需要を加味した上での189系6両での輸送力には疑問が残るが、しかし何を隠そう。この撮影の7年数か月後の令和6年春改正においては房総特急が5両306人(E257系500代)または6両290人(E259系)に統一されてしまったのだ。そんな千葉県民に言われたくはないことだろう。千葉支社というかJRからしたらまあ千葉なんてどうでもいいんだろうけどね。E131系は好きだけど、半ば強引に末端区間をワンマン化したぐらいだし。

実はN102編成はこれが初撮影となった。あさま色かっこいいな、というか懐かしい。もっとも私の言う「懐かしい」はこの時と大学1年生の時の思い出だけで言っているのであって、189系が横軽を超えていた特急あさま時代にはそもそも産まれていなかったわけで、懐かしいと言っていいのかは不明だけど。

ふじかわ10号としてF8編成が折り返してきた。まだこの時はいずれふじかわ号に何度も乗ることになるということを知らない。初回はクハだったけど、それ以降はどうせ座れるからという理由でクモハの自由席ばかり乗っていた。帰省、旅行、遠距離恋愛、沢山乗ったなあ。思い出の列車だ。

これも人生初撮影…ではない。EH200自体は撮ったことがあった。この数年後に甲府で腐るほど撮影し、名古屋に進学したかと思えば時を同じくしてEH200が一部EF64の運用を置換える形で名古屋と稲沢への運用も開始し、千葉県人に戻ったかと思えば京葉線の貨物でも会える、いわば腐れ縁となったEH200。今後ともよろしく。ホーム入線時は一部利用客が耳を塞ぐレベルの騒音だけど、実は機関室はとても静からしい。え、何でそんなこと知ってるんだって?当てずっぽうに決まってるじゃないですか。

なんか211系を見ていると甲府の駅メロが脳内に流れてくるまである(末期)。当時は無論そんなことなかったけど。1番線「青空と線路」、2番線「ジュピター」、3番線「恋の通勤電車」。それぞれ普通小淵沢行、高尾行、韮崎または塩山行が出ていきそう。そんなのお前だけだよ(笑)。甲府駅の駅メロはずっと変わらないでいてほしい。絶対駅メロ変えないで。うわきも!死んだんじゃなかったのかよ(笑)。頼むから俺の推しにクソリプすんなや(笑)
思えば青空と線路を聞くと甲府に戻ってきたんだなと思ってしまうようになったし、ジュピターを聞くと何となく切ないながらも千葉に帰るまたはイコラブの握手会で上京するんだなあと思ったし、恋の通勤電車を聞くと未だに脳内で韮崎行か塩山行のローカルが出ていく。高輪ゲートウェイで初めて降りた時、なんだろうな、京浜東北線南行が韮崎行か塩山行にしか見えなかった。あ、駅メロヤクザのうんちくはいらないのでお帰りください。東北新幹線の駅メロの話、何回も聞かされてうざかったなあ。
さて、記事が長くなってきたので、続きに関しては明日また改めてお送りさせていただきます。
旅行2日目 平成28年12月29日
執筆 令和6年12月9日