おはようございます。コピペが上手くいかず、切り取った元の貼り付けて一部文を改訂して終わるはずが一から書き直しになった管理人です。マハトマガンジーやリンカーンもビックリなレベルな聖人君子でもこういうことがあるんですね。本当の聖人君子はそういうことを書かないと思うので、さっさと先行ってください。
というわけで、まあ一から書き直します。今回は昨日公開の記事の続きで、まあ写真自体は過去に公開した記事と被ってこそいるものもありますが、しかし6周年記念と私の新幹線車両への愛をこめて6年経った今、改めて書いてみようと思います。愛をこめてクソ記事を。大袈裟だから黙ってて。
こちらは湯沢で撮影のJ65編成。長い長いトンネルを抜けたけど写真ではそこまで雪が積もっていませんでした。平成30年12月というと(というか実は今日からちょうど6年前)確かまだE7系の上越新幹線運用は解禁されていなかったんだっけか、だからか知らんがそれはもうE2系もE3系(現美新幹線に限る)もE4系Maxも選り取り見取りだった。無論E7系も大変優秀な車両で個人的には割とかなり好きだし、なんならオフィス用に1両欲しいぐらいだけど。できればグリーン車。←ヲタクは推しに似る
前回の記事と重複するが、さすがに越後湯沢→浦佐で新幹線を使うのはアレだよねということだったのかは不明ながらもE129系ローカルで移動。この車両もなかなかいい車両だと思っている。もっとも10年ぐらい前に噂されていた211系転用が実現していた場合は下手したらこの色の211系を見ることができたかもしれない訳で、またはキムワイプな211系が爆誕していた可能性もあり、しかし新潟県の豪雪に対して211系がどれだけ耐えられるかは素人の私には不明なので、まあ何とも言えない。
という訳で、浦佐で撮影開始だ。こちらはJ54編成のとき号。浦佐停車便だね。J54編成はこれ以降、いやいちいち編成を記録していなかった小学生の頃からって可能性こそありつつもではあるんだけど、事ある毎に遭遇する腐れ縁の編成となる。それは私が大学を卒業したとされる令和4年春(J54編成の新幹線総合車両センターにおける廃車待ち)まで続く。この写真は6年前、最後に会ったのも2年半以上前、あっという間だった。別に素敵な思い出が消えることはないから、それはいいんだけど、そういう話ではなく。
続いて下りはE4系Maxの16両編成が到着。せっかくの16両を面縦で処理しているあたり、将来のみならず過去も心配になる。まあSDカードを漁って原版を確保できた際にでも焼き直し、そしてまた懲りずに記事にしたいと思う。数字は(ラストラン前に比べたら)取れないだろうけれど、そんなことはどうでもよく、ただ単に私がMaxやはやてをはじめ東の新幹線の車両が大好きだからだ。
この頃は大学1年生(19ちゃい)だったが、学内でのアレコレや慣れない生活環境によってメンタルをやられていた。中学の時ほどではなかったが。あの頃もこの時も、そして今も、やはり東の新幹線って好きなんだよなあ。見て撮って乗って、それで私は気合を入れなおしていたもんだった。私の鉄道好きの原点の1つはE4系Maxだとかれこれお240回ほど書いて来たが、別にこの時はMaxに限らないものの、しかしこうして思い出を作っておくことができて本当によかったと思う。帰りには無論しっかり乗る訳だが、その話は明日更新の記事にてさせていただけたらと思う。
続いては現美新幹線のR19編成が登場。主に新潟県内の各駅を結ぶ「とき」号として運用されていた現美新幹線だが、この撮影の翌々年の12月19日に運行を終了してしまった。元は秋田新幹線「こまち」として製造されたE3系後期車のうち、R18編成とR19編成は700代への改造、R21編成とR22編成は最後までロゴだけ剥がしつつも東北新幹線増結車として活躍、R23~26編成は1000代L54/55編成へと改造、そしてR20編成は利府で放置のうちに解体となっている。
E6系導入時に比較的新しかった後期車のうち、改造されて「とき」として羽ばたいたR19編成(あっこの画像はR23編成です)。それが果たして彼にとって幸せだったのか、それを知る術は当たり前ながら存在しない。しかし、R20編成のように野ざらしにされた後に結局解体されたり、R21/22編成のように原形を保ちつつも仕事がなくなって廃車解体となったりするよりは、とれいゆも現美も幸せだったのだろうか。
続いては浦佐を通過するMaxとき号のP18編成。2階建て16両からしか得られない栄養素はあるが、しかしこの車体なら8両でもその迫力は十分。Maxには撮り鉄の楽しさ、新幹線を撮る難しさ、そしてこの電車ヲタクという趣味の楽しさを沢山教えてもらったと思う。こんなに素敵な車両のヲタクを21ちゃいまでできて、というかこの趣味の入り口がMax(と都営5300形)で、本当によかった。こんなに嬉しいことはない。年度内には是非新津のP1編成に家庭訪問したいところだ。まあ、込み上げてくるものがありすぎて、せっかく会えても涙で本体が見えない気もするけど(笑)
続いてはE2系とき号。これはJ70編成だね。皆さんもご存知の通りJ70代(便宜的に後期車と書きます)は新青森開業に際して作られた編成で、J69編成までの車両との差異も多く、また執筆日(10月)時点では唯一現役で活躍するグループ。
このE2系1000代後期車は新青森開業までに増備されたグループな訳だけど、青森生まれとして絶対に外せないのは平成22(2010)年に東北新幹線が全線開業した時のエピソード。当時、新青森~東京最速は3時間20分だったのだけど、それは新青森初の上り初電が担っていた。そしてその列車は必然的に新青森から初めて客を乗せて東京に向かう新幹線となる訳だが、あの日に充当された編成はJ75編成。つまり最新の編成だ。青森県民の悲願であった東北新幹線新青森開業、そしてその新青森からの一番列車に際し、当時いちばん新しい車両が当たったのは偶然ではないはずだ。JR東さん、案外そういう粋なことをしてくれるからな。209系みたいな攻めの姿勢(も好きなのはまたいつか)もだけど、しかしああいうアツいことをできるのもJR東さんならではだろう。
アレは本当に目頭が熱くなった。只々嬉しかった。なんだかんだでJR東が好きな理由の一つってのもある。そしてそんな東北新幹線の新青森~東京は、今では最速便だと3時間を切るものもある。しかしどうかE2系引退前にはまた新青森にも来てほしい。イーストアイを除くと初めて新青森に入線したE4系Maxはそれをできなかったわけだし、やっちゃいましょうよ!
と書いていて気が付いた。これJ75編成じゃん(笑)。しばらくはE3系2000代の置き換えを進めたいだろうからE2系は安泰だと思いたい。その一方、やはりE3系0代が数編成残っていたら、増結用としてまだ活躍できたのではないだろうか。最高速度に鑑みるとE2系共々ダイヤの足かせだが、とはいえ混雑の平準化(笑)という建前での増結車両としてまだ生きていたら、まあもうこれも何回も書いているけど、最後の花道で編成JRって実現していたんじゃなかろうか。
とはいえ、それが荒れる原因になるのは流石に私も望んでいない。セルフ出発式とか罵声とかもうやめて状態だもの(笑)。10年前、ワンチャン日立GTO同士でハモっていたあの組合せ、特に上野の地下に響くアレ、そして私にとっての「はやて+こまち」、これらは永遠に僕の中の素敵な思い出ってことにしておこう。まだ消えぬ愛はこの砂浜に置いていく。
なんて言っていたら、現美新幹線のR19編成が帰ってきました。前回の記事の通り、後はこれに乗って新潟を目指します。思えば上野→前橋での特急ワープこそあれど、とはいえ(うすい→)上野→浦佐を在来線で移動した俺ってまだ若かったんだなあ…。それも含めて本当にいい思い出だ。前回の記事で書いた通り、当時の私さんはメンタルのエアバッグが機能しないレベルの全損事故(被害者ヅラすんなカス)だったけど、しかし思いつきで強行したあの遠征には微塵も後悔していない。
して、まあ詳細は前回をご覧いただきたいんですが、現美新幹線で新潟まで移動しましたわ。思えばこれ以来E3系にも乗っていないのか…。秋田新幹線由来の26編成は全て廃車となり、何ならまだまだ新車だったはず(世代的には)の2000代すら既に一部が鉄くずになっている現実。ああ、涙が新清水トンネルの湧き水みたいだ。でも俺の涙は天然水にはなれない。オマエうるせえよ(笑)。
冗談はさておき、なんか本当に時の流れは速いなと思いつつ、改めて日頃の記録は大切にしないとなって思った次第でした。そしてこの遠征の当時、つまり6年前に病んでいた私さんはE2系・E3系・E4系というまさに私さん世代ブッ刺さりで大好きな新幹線たちを撮ることができてとても幸せだったのは覚えている。少なくともE2系後期車以外でここに出てくる新幹線をまた撮影することは不可能。不可能だけど、でもこの時も大切な思い出と元気をもらっていたことはヲタク冥利につきるってもんだ。
お別れのBGMは小田和正さん「ダイジョウブ」でお願いいたします。あ、明日の記事はこの後の新潟バルブと帰り道の模様をお届けして、一連の記事は終了です。それではまた。
記事執筆:令和6年10月13日