皆さんこんにちは。今回は私が大学生だった頃の過去画から令和元年6月のものを取り上げます。昨日投稿の記事ではJR中央線・総武線をメインで取扱いまして、今回はそこから分離させた京成回とイコラブちゃんイベントの話をメインに書いてまいりたいと思います。本日もよろしくお願いします。
なお、バカをこじらせたバカな私は、なぜとは言いませんが過去画数本をすっ飛ばして今日この日にこの記事を投げました。まあ、自分だけの青春ってやつですね…(ここで屋上で夕陽を見ながら黄昏る)←は?

まずはなんか今思うと日の丸な3408編成。3408編成は3400形の中でも一番最初に廃車になってしまったが、3400形の中では一番注目度が低かったように思えるのがやはり不憫でならない。
まあ結局1編成だけ残っている3448編成はもうモッテモテな訳だけど、なんかねえ(笑)。私が高校生の頃は3400形はおろか3500形や3600形すらロクに注目されていなかったので、それはもう平和でよかったなあ。

成田止のイブニングライナー。編成はわからない。かつては大半のイブニングライナーが成田空港まで運転されていた上に夜間の下りスカイライナーなんてものは皆無だったが、この頃から徐々に成田止が増えていった印象。そりゃまあ420円だか450円だかで空港までインバウンドなんかに乗られたら本線の通勤需要への冒涜みたいなもんだからなあ。何が観光立国だ。本当にばかばかしい。

とはいえインバウンドで京成が儲かっているのも事実なのでそこは致し方ないかと思うが、しかしインバウンドが成田スカイアクセス線へと完全に流れてくれている訳ではないので、実際に本線等を使う沿線民が迷惑しているのも事実。そこらへんは京成にも改善してほしいが、まああんまり期待していると悲しくなりそうだからあんまり期待しないでおく。
ちなみに5番線(4番線)から上野方に出る列車のうち客扱いを行うものはないはずだが、回送を中心にこうして同方に出ていくことは可能。

3037編成の快速成田空港行。本線や千葉線・千原線等のユーザーが京成で成田空港に行けなくなると困るので成田~2ビルを廃線にされるとそれはそれで困りつつ、系統分離でもしてくれないかなあと思っている。

さて、当時は実家の最寄りだったうすいを目指そう。こちらは3788編成(初代)の特急。まさか3700形が2回の脱線事故で廃車になるなんてねえ。京成ファンとしてはショックでしたよ、ええ。まあそれに関してはもう今更愚痴ったところで過去画変わる訳ではないので割愛。
日中の特急廃止で快速特急通過駅の利便性や上野・日暮里~成田の利便性も下がっているので、もう少しなんかこういい感じにできなかったのかなと思うが、この時点では令和元年秋の改正で日中にも快速特急が運転されるようになる前だったので、ここで書くのもお門違いだろう。

佐倉で撮ったAE7編成のイブニングライナー。既にこの頃はAEのヘッドライトがLEDに換装されていたんだなあ。私は20年以上実家の最寄りがうすいだったので八千代台でライナーを降りるのがなんか悔しいというかもったいない気がしなくもなかった反面、令和6年改正でイブニングライナー・モーニングライナーの料金体系が変更された今となっては仮にうすいに住んでいたとしても傷が浅く済んでいたのかなあと思わないことも無い。

うすいで降りて快速の5300形をバルブ。うすいなので快速・通勤特急の急行灯は点かないが、別に急行灯が全てではないのでそこまで気にしていない。5300形も気が付いたらいなくなってしまっていた。寂しいなあ。E4系MaxやAE100形同様にこの趣味の原点だったから。
美人薄命というか、東京都交通局の車両はこうして全体的に短命なのが惜しい。それこそ新宿線10‐300形の8両がもういないって下手なホラーより恐ろしいでしょう。こうした日頃の記録はやはり大切なものなんだなと再認識したし、それは5300形から教わった教訓なのかもしれない。あ、陸送ヤクザによる5320編成陸送の自慢話も大歓迎です。是非ともコメント欄へ。さあさあ紅茶でもいかがですか(笑)

この頃は頻繁に実家に帰省していたが、翌日のお昼に撤退。うすいからは快速の3029編成で当時住んでいた甲府を目指す。人としての幸福指数が一番高かったのは間違いなく高校生の時だったけど、こういうのを見ていると大学生の時はだいぶ自由に遊べていてそれも楽しかったなあと思う。今は疲れて家に帰ってこうやって酒飲みながら記事を書くぐらいしかできないもの。

時系列が前後するが、この月の上旬、令和元年6月8日。
新宿のカラオケの鉄人さんでイコラブちゃんの一日店長イベントがあったので参戦していた。=LOVEリーダーでもあるあんにゃこと山本杏奈さんとは初めましてだったんだけど、半値を名乗ったら認知されていたのがとっても嬉しかった。ごめんなさい、多分この話をするのは2~3回目なんですよね。でも本当に嬉しくて。2人とも推しというのもありがたかった。
私は=LOVEの楽曲でどれが好きなんて決められないが、この1年と少し後にリリースされた8枚目シングルの表題曲「青春”サブリミナル”」がかなりブッ刺さる曲で、しかもその歌詞に「初めての会話覚えてるのは 私だけでしょう」って歌詞があって。なんかこの時に初めましてだったあんにゃとひとみんとの会話を思い出しながらこの曲を聴いていたら視力が落ちてきた。眼鏡の汚れかな?と思ったけど、普通に涙がで、出ますよってだけだった。何言ってんだこのキモータヒッキーは。男のメンヘラに需要はないから記事進めてくれよな。

お二方からいただいた名刺。無論今も大切に保管している。あんにゃからの名刺は直筆のサイン入りという大当たりを引くことができていた。これはマジで嬉しかった。大学院入試のための勉強やコロナ等の空白期間こそありつつ、今も推させていただけているのはとても嬉しいことだ。あんにゃとの握手会エピソード等はまたその当時の記事で沢山書かせていただきたい。

楽しい時間はあっという間に終わってしまう。でもあの一瞬は私の心にずっと残っている。

本当にこの頃は幸せだった。もし中国の武漢で新型コロナウイルスが発生しなかったら、もし対面で会える現場が今より多かったら、どうなっていたんだろう。いや正直推しと話すのは直接がいいってだけで、握手はじめ接触イベントである必要はないんだけどさ。恋愛と違い見返りなんて求めない、完全な一方通行の「好き(恋愛感情ではない)」だからこそ、推しのことはずっと好きでいられるんだろうと思う。まあだいぶ私クソDDですけどね。ええ。
てなわけで甲府に戻ります。ちなみに帰りはローカルです。流石に平成30年12月24日の4053Mを船橋場面で担当していた運転士がご丁寧に私を中傷してきてくれた時の名言「ガキがいっちょ前に特急乗ってて草」はできませんからね。ええ。アカウント消去して逃亡してしまったあたり、そういうことなんだろう(笑)。くだらない人生で終わっちゃったね、また。人身事故で心病んで自殺コースだったら最高に面白い。

甲斐大和での1枚。武田信玄公の後継である勝頼公が自害したのは甲斐大和付近の天目山だった。勝頼公に流れる諏訪家の血がそうさせたなんて見解もあるが、実際に私は信玄公とも勝頼公とも話したわけではないのでわからない。
ただ、もし仮に武田家が室町幕府の後継として天下を取っていた場合、少なくとも信玄公が生きている間は太平の世が続いていたのではないかと思ってしまう。その場合は無論いまの歴史も全く違っていたものになっているかと思う上に、私も産まれていなかったのだろうけれど。自らの存在をなかったことにしたいという私の願望と歴史オタクとしての私が武田家に天下を取らせたいという願望でそういう歴史小説を書いてみたい。この頃に始めた2つ目のバイト先がクソだったって話はどっかでするorもうしていると思うので、今回は割愛。