皆さんこんにちは。この記事から本格的に大学生時代の写真をリメイクしていくシリーズが始動します。過去画乞食記事ですね。もっとも大学生時代のものに関しては、既に穴埋め要員で使ったものもあるので、高校生時代の時みたいに気合いを入れてやっていくかは不明ですけどね。遊びは本気でやるって言ってた気合いはどこに行ったんだ(困惑)
まじめな話、既に記事にしている上に消していた訳でもないのですが、未掲載だった写真も数多くあることが判明したことと当時の原版を再現像して書いた方が見栄えもいいかなということでこのシリーズを書いています。今回は平成30年4~5月のものです。M52編成のラストランから行きますせん。
って思ったけどこの頃の中央線でE351系ラストランは外せないね。シリーズ初回から話が逸れてセンセンシャル。

練習で撮ったあずさ10号からスタート、フル点灯ハイビームが嬉しいね。ノイミー(≠ME)の曲でフル点だなんだ騒いでいる方はお引取りください。イコノイジョイそれぞれの現場に来ないでというか手出さないで。最前管理だのTO気取りだのはあんたのとこでやっててくれ(笑)
してこちらはM-115編成で、現在はNA-12編成として活躍している。英字表記で表示負けではあるが、個人的に貫通顔のAとK(あずさとかいじ)は悪くないと思うのでヨシ。なお同列車の停車駅は甲府を出ると石和温泉、塩山、大月、八王子、立川に停まって終着の新宿まで運転される(今回は甲府以西は割愛)。山梨市くん…どうして…。

本命がこちら。日曜日だったと思うけどなんかクソ大学の新歓オリエンテーションみたいなのがあったっけ。意味のない4年間だったよ。それはさておき、私が一番乗った編成が最後まで残り、営業運転としては最後の本線走行となった。表示は通称アディダスだが、ミュージックホーンを聞けたのでそれぐらいは何も気にしていない。進学する気のない大学ではあったが受験でも乗った編成だったし、電車では初めての山梨旅行の帰りにも乗った。

再度出陣。E351系ラストランは新宿への片道なので復路は回送となることを知っていたが、Twitterの目撃を頼りに撮りに行ったらなんか違うのが来た。これはどう見てもE001系四季島だ。実は高校生の時に同級生でもあった親友と試運転を撮りにいって玉砕したことがあったので、これが初撮影。結果としてこれから沢山撮っていくことになるので、これからよろりんこ菊地凛子。
当時の四季島のうち1泊2日コースの1日目は上野から常磐線・武蔵野線経由で中央線に入り、塩山で客を降ろした後に一旦甲府電留へ回送、再び出庫して塩山に回送された後に折返して客扱いを行って…といった行路だった。これは記憶が正しければほぼ同等のスジで運行された試運転なんだけどね。

本命が下ってきた。もう少し工夫のしようがあった気はするが、そこは当時の私を恨むしかない。これを以てE351系は全ての運用を終了、長野総合車両センターに回送されて完全引退となった。E257系0代やE353系のような分量で扱えないのはひとえに写真の少なさによるものなので私の落ち度。最後の最後に見られた回送表示が(スーパーあずさ運用時と比べて)あんまりにもシンプルでどことなく寂しさを感じてしまう。もう1度ぐらい乗りたかったが、私が進学で甲府に進学した時点で既に定期運用は終わってたので仕方ないね。
思えば旅行と受験、入学手続きという建前の旅行では本当にお世話になりました。当時は未成年で酒の悦びなんて知らなかったが、今となっては351の車内で酒盛りして酔い度レロになってみたい人生だった。
こんな感じで。初代アル中カラカラさんが平成29年に投稿した動画で、後半においてE351系での飲酒シーンが記録されている。個人的には車内販売アテンダントのお兄さんのイケボが好き。先述の通り私は当時18ちゃいなので酒なんて飲めなかったが、今思えば高校2年生の時のアルコールパッチテスト(文系クラスだけどなんか理系授業だったような・・・)で同級生みんなとハイになっていたのはフラグだったのかもしれない。
次。M52編成ラストラン行きます。

つってもこの写真は多分当時普通に記事にしていたんだけどね(おい)。既に回送幕になってはいるが、こちらは豊田車両センター189系M52編成のラストラン往路。ガチのラストランとなった廃車回送に関しては寝てたので行ってないのか、当時住んでいた寮の門限で行かなかったのかは知らん。知らなかっただけかもしれないけど。理由に関しては考察するまでもないが、深夜帯の施行だった。M51編成が廃車回送を兼ねたツアーで日中に実質的な廃車回送となったのとは少し対照的かもしれない。

E257系との離合。先ほどの画像と見比べていただくと、運転席側のタイフォンが開いているのがおわかりいただけることかと思う。あれは7年近く経った今でもびっくりしたのを覚えている。というかまあ運がよかったんだよね。当時の記事自体は残っていると思うので、詳細に関しては割愛することとする。

5月頭に撮ったM-104編成。0代時代はなんかやけにあまり遭遇しなかった印象。2000代NA-04編成になってからはそこそこ撮っている気がする。この時は多分E257系500代のかいじでも撮っていたんじゃないかなというのはさておき(その記事消してねえもん)、M-104編成はE257系0代定期運用終了直前に東大宮常駐だったM-107編成か何かと入れ替わる形で数日のみながらも東大宮センターにいたことがあった。翌年の話だけどね。当時はその動きを台湾の新北から追っていた私の異常さに関してはさておき、あれの理由については何だったのか今でもわからない。
既にこの記事を完成させてからここで別記事用の画像を探していたところ、E531系とM52編成ラストラン時の他の写真が出てきた。なんか探し物をしていると探していない物が出てくることってあるよね。

こんな感じで。とはいえ全てぶち込んでいると、205系の転属並みに記事の組換えをしなくてはならなくなる。流石にそこまでの時間を割くことは非現実的なので、また別の記事として1本か2本でまとめておくこととしよう。まあこの写真自体は公開済だと思うけど、記事にしていない写真も実際にごそっと出てきたので、近いうちに公開させていただく。

この日は金曜日、当時大学1年生だった私は授業の合間にM51編成の廃車回送を兼ねたラストランを撮っていた。タイフォンがウインクしてしまっているのはまあ致し方のないこと。そういう日もある。M51編成に関しては甲府に引っ越してくる前に白馬臨で撮っているので別に今更特段の後悔はない。
電車と関係はないものの、この日は大学の新歓があってアルハラされた(※当時18ちゃい)のを覚えている。断固として拒否したなんて今の酒好きな私が書いても信じられないだろうけれど、あの時点で入る大学を間違えたなと改めて思ったものだ。マジで馴染めなかったし、そもそも偏差値60もない大学なんて大学と認めたくもない。来世はもっと頭のいい人間に生まれたいなあ。あんなクソ大学しか入れなかった私自身は恥である。

千葉に帰るために最終の特急スーパーあずさ36号に乗って千葉を目指す。当時は自由席が設定されていたほか、日によって自由席と指定席が変わる号車もあったのを覚えている。私は自由席に乗っていたが、並んでいる時に頭が悪そうなクソリーマンに「この号車自由席?」と聞かれたのは覚えている。優しい私は(俺優しくないのに優しくないと言われて困るBOTは帰れ)自由席だよって教えてやったと思う。まだ中央線特急の客がキ印のオンパレードと知る前のことだった。
確かこの時が私の人生初E353系だった。思っていた以上に快適で感動したのは今でも覚えている。思えば甲府市民時代に慣れてしまったが故に、私にとってある種の当たり前となっているのはいくないかもしれない。倖せとはなくして気が付くものだから。で、S204+S104編成ペアに乗ってました。あとさっきの十郎橋の画像はS204編成先頭のあずさ号です。
立川で降りて快速に乗り、ムーンライト信州の送込み回送として運転されているN102編成を三鷹でバルブしていた。何人か同業はいたし警備員もなんかいた気がするけど、まあマジで平和に終わったのは覚えている。というか既に189系最後の1本だった割にはびっくりするぐらい平和だった(笑)。同業の皆さんとは普通に談笑してたしね。

T33編成の「各駅停車」。当時は豊田のE233系にも「各駅停車」運用があり、三鷹以東において緩行線を走行していた。これはこの平成30年度3月(平成31年3月)改正で廃止となってしまったが、グリーン車増結を見据えてのことなのだろう。逆にこの頃は黄色い総武線でも立川まで客扱いをする運用もあった。そちらも撮っておけばよかったと今猛烈に後悔している。前者はまあホーム有効長もあるのでアレだけど、後者は別にグリーン車がないというアレで残しておいてもいい気がしなくはない。でもアレか、鉄道利用客なんて馬鹿しかいねえからグリーン券買ったのにグリーン車がないってヒスって駅員さん等に噛みつく知恵遅れがいてもおかしくないから、そういう意味ではいいのか。この辺は既に過去記事で書いていて、多分関連記事に出てくるので、ご興味のある方は是非そちらもお読みいただけたらと思う。

三鷹での一連の撮影を終えて、終電で帰る。総武線を浅草橋で降りて都線に乗換え、当時の終車であった通勤特急佐倉行に乗った。金曜ということもあってバカみたいに混んでたなあ。写真がない上に当時使っていたTwitterアカウントは全て現存しないので確証はないが、なんか3056編成だった気がする。3050の通特佐倉ってとこまでは覚えている。そうか、今のダイヤだと本線の終車が通特佐倉じゃないどころか夜の下りで通特が数本しかないんだもんなあ。時代が変わったのだなあと思ってしまう。
なおこの画像に関しては高校生の時に撮っていたものであり、この頃の写真とは一切の関係がない。そういえばこの時は当時の実家の最寄りであるうすいまで親が車で迎えに来てくれていたっけか。まだ当時のファミリーカーが1Tトゥーランで、AWポロと出会う前だった。そういう意味でも実家の車というのは私にとって大切な家族なのだ。

月末、成田の中台で行われていた高校陸上の大会に後輩の激励のため顔を出し、その足で東京に行き新幹線で弘前に帰省していた。無論ヲタクなので盛岡まで臨時やまびことしてのE2系を選択。しかし臨時なので車販がなく、郡山での待避で何とかしてサンドイッチとお茶を確保できたのも懐かしい。

編成はJ58編成。先述の通り車内販売がないというトラップに引っ掛かりつつも、終着の盛岡までE2系を堪能できたので何も文句はない。J58編成も実はこの数年後にスプリンクラーブッシャー状態で撮れたことがあったのだけど、もしかしたら乗ったのはこれが最後だったのかもしれない。きっと八戸・新青森発着のはやてで沢山乗ってきたことだろう。既に存在しない編成だが、その節はお世話になりました。
J58編成の上越新幹線での一コマ。これはまあ令和3年の撮影なので、まだ今回メインの写真を撮った一連の時はこういう写真を撮れると知ることも無い。思えばあっという間だったし、きっとあっという間に年を取っていくのだろうと思った。

盛岡からは特定特急券ではやぶさ号に乗って新青森を目指す。がその前に恒例行事であるはやぶさ・こまちの切離しを見ないで乗る訳にはいかない。私ははやこまといえば編成JR世代だけど、でも編成UZになっても盛岡の増解結は何歳になっても見てしまう。ビッグイベントだからね。

こまちはZ23編成だった。今回は令和7年に公開されたNetflix映画「新幹線大爆破」よろしく上り新幹線に爆弾がしかけられているようなことはないので、当然速度を増してはやこまが爆速で盛岡を通過するようなことはなかった。

新青森に到着いたしました。思えば下り新幹線で青森に帰省するにあたり、新青森の北側に奥津軽いまべつの駅名票が出ているのを見るのはこれが初めてだった。下りに限るけど。多分。
これから数年して成人した私が酒クズに堕ちた今でこそ酒で潰れて新函館北斗まで連行されるリスクがあるというのはさておき、北海道新幹線が新たな地方創生のトリガーになればいいなと思う。そう書くのは簡単だけど、新幹線の開業には光と闇がある。それは八戸延伸でも実感しているし、大学生の時に地方政治について学んでいた時にも改めて実感した。難しい問題なんだと思う。

701系で弘前駅を目指そう。シラフでそんな写真だなんて、某氏そんなんじゃ困るんだよぬぁぁぁああああ!!!あ、はーい(笑)。舎弟を踏み台にして浮かした金で701系ヤクザしている方には目の毒であろう。私の普段の論調からしたら人間が大嫌いなのはご理解いただけるかと思うが、でも他人への恩を恩とも思わないクズは私未満だと思う。某氏ネタの元凶が東北に来ませんように。あとイコラブの現場も頼むからやめて(笑)。他人を不幸にするスキルはここで自慢しなくていいのだ。

翌日。親戚が岩木山神社に連れて行ってくれていた。4月末だが当時の津軽では桜の花が綺麗だった。次に弘前の桜を見ることができるのはいつになるのだろうか。そこに祖父母や親戚一同もいたらいいなと思ってしまう。

岩木山神社での1枚。次に岩木山を訪れる際、愛車で岩木山スカイラインを攻めることができていたらと思う。ああ、最小回転半径も知らずにV37スカイラインが警察車両だからってブヒブヒ騒ぐ警察マニアはお帰りください。ご冥福をお祈りいたします。

なんか食べていたソフトクリーム。美味しかったとは思うが、まあ美味しくない訳もないもんね。2月に書くことかどうかはさておき、なんかソフトクリーム食いたい。というか青森に帰りたい。岩木山スカイラインをドライブしたい。

故郷の山である岩木山の写真。思えばもう何年も生で見ていないんだなあ。執筆日の時点で最後に岩木山を生で見たのがいつだっけレベルなのがもう悲しいどころじゃないよね。この時点で最後に帰ったのは令和6年始、しかし雪でホワイトアウトしていたので見えるものも見えなかった。岩木山を見ると安心するんだよなあ。
さて、楽しかった帰省もあっという間に終わる。残念だが帰るしかない。思えば実家で18年半育ったのを抜け出して1人暮らしを始めたあの頃は解放感しかなくてせいせいしていたっけか。まあ親父にぶち込まれた学生寮は地獄だったが、そこそこ美味しい思いもできたけど、それは今回は関係ないので割愛。

弘前では臨時特急の弘前さくらまつり号みたいな感じの臨時特急が1番線に停車ちう。でも乗車率は(お察しください)。一方で私が新青森まで乗っていったローカルに関しては乗車率がそれはもう悲惨で大変なことになっていた。山手線のE235系が見たら真っ青になって京浜東北線に転属しちゃいそうなレベルで。いやほんとに(笑)。
当時の秋田支社は何考えてるんだって思いつつ、当ブログではお笑い担当と化した千葉支社が京葉線の通勤快速を廃止して日中以外の快速の運転も取りやめた歴史に残るあの改正では秋田支社がスーパーつがるを新設していたので、どんぐりのナントカか。何はともあれ祖父母や親戚がホームまで見送りに来てくれていたのが切なかった思い出だ。あと令和7年春は秋田・弘前~青森間での臨時特急あじゃじゃました。助かりました。廃車になったモハユニットが残っていたらと思いつつ、まあ普段使わないのにモハユニットを放置しておくのも合理的ではないだろうし、難しい問題だよね。

新青森に貼ってあった臨時普通列車の告知。臨時普通列車というと「いな本海」や「あけ本海」を個人的に連想してしまうが、まあ確かにアレも青森絡みのMADだったとはいえ、今回は無関係。それはそう(笑)。臨時のローカルと言いながら途中は浪岡だけに停まるあたり、やはり弘前桜まつりの需要は大きいのだなあと実感した。

新幹線で東京へ。16時38分発の「はやぶさ32号」で移動開始。この列車は令和7年にNetflixで公開された映画「新幹線大爆破」において、爆弾がしかけられた新幹線「はやぶさ60号(新青森15時17分発)」の運行にも関わる。止まれないはずのはやぶさ60号をどこでこの32号が追抜いたのかなんてマジレスをする方がアレだろう(3032Bが逆線運転でぶち抜いた説を推しています)。あの映画は本当に面白かった。私が鉄オタでなかったとしても楽しめたのではないかと思う。
それはそうと東京から3時間程度で青森県に到達できるって思うと改めて便利な世の中になったものだと思う。先述の通り新幹線には光と影があることはわかっているが今回はそれに関しては割愛。今回も往路同様に特定特急券にて盛岡まではやぶさで移動し、盛岡からは臨時のE2系やまびこ号で移動していた。思えば盛岡までとはいえゴールデンウィークに特定特急券で全席指定のはやぶさに乗るなんて怖いもの知らずの無敵状態だったと思う。この頃以上にインバウンドが増えてゴミめいている今は怖くてできたもんじゃない。誰なんだ、観光立国なんて何の技術もない国が採るべき政策を進めたのは。おかげで日本人は迷惑しています。
後編へ続く。続きは明日公開いたします。

