今から3年ぐらい前の1月のとある土日、シティライナー撮影等を目的とした建前で実家に帰省していた。そうか~3年前はまだ甲府に住んでいる大学生だったんだなあ。この時期の甲府の冬の朝の空気が好きで、ベランダでの一服が至高のひと時だった。
旅はいつも甲府駅から始まる。この2番線にあずさ・かいじが入ってくるのが8割の旅の始まりだったのも懐かしいものだ。時々高速バスも利用させていただいていたけど、中央線特急が全席指定になってから大学の同期と会うのが嫌で新宿線は特に時刻と便を選んでいたっけ。高速バスには高速バスの良さと愉しさもあったが、それについてはその時の記事で言及させていただけたらと思う。

という訳で朝(朝ではない)の爽やかな空気と共にE353系が到着。当時のメモを見るとS202+S119編成の「あずさ26号」に乗っていた模様。S202編成といえば東京での最後の握手会の帰りに乗った思い出の編成でもあるが、その時の記事についてもまたいずれ書き直そうと思う。本当は大学生の時の過去画については既に公開したものを除いては高校生時代の一連の記事を出し切ってからにしようと思っていたのだけど、今回はE217系に京成シティライナーにタイムリーな上に今朝の記事の内容があまりにも薄いので、急遽書かせていただいている。

カッとなってグリーン車に乗ってしまった模様。短気は損気、許すってことを覚えないと。しかしまあ今になって考えるとこの時の俺もだいぶおかしかったなあ。反省。

美しい車窓。甲府盆地の中央線の景色は甲府在住時代に幾度となく見てきたが、いつ見ても風光明媚でいいものだと思う。この車窓が最高の肴になっていたんだ。特急に限ればE353系の車内から見た回数が一番多いかな。

これは決まってますなあキモータさん。イコラブだけは変わらず好きだもんなあ、いやだけではないけれど。この頃はまだ居酒屋兼ブログ執筆用のオフィスにはしていなかったんだなあ。いやしてなかった訳ではないけれど。

なんかニューデイズで売っていた駅弁。朝飯を食っていないので、では居酒屋あずさ号の車内でいただくとしよう。甲府駅は山梨県で一番大きい駅のはずなのに駅弁がなかったのが残念だったけど、その分こういうたま~に売っている各地の駅弁を食べられるのがよかった。

今でもこれが美味しいかったのを覚えている。マジで。駅弁って多少値が張るものもあるけれど、ハズレは基本的にないのでそこがいいとも思う。
新宿に到着。1時間半なんてあっという間だが、その間にだいぶ酒を飲んでいたと思う。うん。3年前の今頃が私史上では2番目に酒に強かった気がする。最近はそもそも翌日にアルコールが残って検知器を鳴らしたらアウツなので休みでもない限りは控えているし、飲める日もなんかすぐ眠くなっちゃうもんで。
新宿にて撮影。やはりE353系はいいものだ。そういえば年が明けて令和7年になってからまだE353系に乗っていない(そりゃまあまだ18日ですから)。まだ今年も始まったばかり、乗車に撮影に沢山できたらいいなと思う。できればE217系廃車回送の翌朝に朝の信州でも撮ってみたいところ。
ここで乗車した編成について少しだけ。

基本編成側のS119編成。平成31年の1月10日にS208編成と共にJ-TRECを出場した編成で、正直写真はそこまで多くない編成。出場はバイトで撮れなかったのか、当ブログの当時の記事を漁っても該当記事がなかったのが残念。

S202編成はS102編成と共に登場した量産車第1号の編成。スーパーあずさ廃止までは基本的にスーパーあずさ専属でS102編成とペアを組んで動いていたが、現在は特に固定での運用はない。こちらは富士急線内での撮影。
閑話休題。新宿で一服した後に山手線で品川へ向かう。当時の乗車記録を見返すと現在も運用離脱中のトウ07編成に乗っていた模様。せめて写真があればなあ…。

品川に到着。復活から2年が経とうとしていた仙台ひたちの発車標を撮っていた。品川から仙台ってのもなかなかすごい長距離だよなあと思う。この時はまだこの数か月後に再び仙台ひたち・常磐線が東北新幹線のバイパスになるなんて思いもしなかった。その時の話は、それこそ来年以降どこかでまた改めてゆっくりと書きたい。

さて、私はさっさと千葉に帰りますよ。こうして振り返ればE217系がいたのが懐かしいが、今でもこうしてふとした時に見られるのではないかと思ってしまう自分もいる。

Y-5編成とY‐139編成の15両が到着。構図はアレでもちゃんと一眼出しておけばよかったなあ。まあ写真がないよりはいいのだろうが。なおY-5編成に関しては、記憶が正しければ令和元年夏のイコラブ・ノイミー合同ライブ”24girls”の帰りに新橋からの帰りに乗って以来だったことかと思う。

まだ廃車前だったが、既にグリーン車の洗面台が修繕依頼中の状態だった。もう満身創痍だったんだなあと思った一瞬。

こういう何気ない写真も、まあ酔った勢いとはいえ撮っておいてよかったと思う。次に私がE217系グリーン車に乗るのは、もしかしたら乗り納めかもしれないから。

ガキの頃に家族で乗るときは2階席ばかりだったけど、1階席も同じぐらい好きな場所。この螺旋階段を昇り降りするあの瞬間も好きだった。別に2階建てグリーン車がなくなる訳ではないけれど。

2階席に昇る。E217系グリーン車の座席、どうにかして入手したい。長野総合車両センターでバラして捨てるぐらいなら、1~2万円でたたき売りしてくれればJRさんとしてもトータルで見れば儲かるんじゃないかとは思ったんだけどなあ。

好きだったこの場所____みたいな感じ。乗り納めは王道の2階席か、暗くて落ち着く1階席か、広々とした平屋席か、どこに乗ろうか今から迷う。3回乗り納めすれば全部乗れるね。

着席視点。この時は空いていてよかったなあ。まあ一応まだコロナ禍だったしね。結局未だにコロナにかからないまま生きている私だが、アルコール消毒以上に終わり散らかした人間性でコロナ側からもご遠慮されているのだろう。もうこのサロもこの世に存在しないと思うとやはり寂しい気持ちになる。せめて座席だけでも売ってくれればなあ。数点限りの限定モノではなくて。そうはいかない理由もあるんだろうけれどさ。

さあ、どんどん飲んでいきましょう。体内アルコール消毒、ヨシ!健康ヨシ!何だか知らんがとにかくヨシ!

電車は江戸川を渡って千葉県へ。千葉県を離れていた6年間はここを渡っている時に「千葉に帰ってきたんだな」と思ってとても嬉しい気持ちになっていたものだった。それは別にJR総武線に限らず、京成本線でもそうだったが。

無事に千葉に到着。ここは3番線、君津行に乗っていたのだろうか。この時はまさか京葉線の全体的なダイヤ改悪が全国的に大炎上したり、今まで京葉線の通勤快速・快速で通勤していた内房線と外房線のユーザーが総武快速に流れてきて混雑が悪化したり、そんなことになるなんて思ってもみなかった(笑)。房総の魅力(笑)

4番線停車中の209系と、その向こうにも見えるE217系。思えばまだE235系が運転開始してから1年、全然いなかったんだなあと再確認。デビューからしばらくするまではE235系がレアだったし、初めて乗れた時はちょっとwktkすらしたものだった。

何となく運転台というか運転席内を撮っていた。何を考えていたのかは不明。編成はC447編成で元C616編成。

こちらはC402編成。まだまだ209系2100代は房総ローカルとして活躍することかと思うが、209系もいずれ引退したら写り込んでいるE217系共々貴重な写真になるのだろう。

ドアが閉まって快速が出ていく。品川からの短い時間ながら、楽しくて快適で思い出に残る時間をどうもありがとう。なお千葉駅到着前のポイントの揺れで空き缶タワーが崩壊したのはここだけの話。当たり前だけどちゃんと全部回収しました。

これ以来Y-5編成に遭遇することは…あったかもしれないが、写真を撮っていたのは今回の品川→千葉での乗車だけだった。
後ろはY-139編成。この編成はこの翌年に東京総合車両センターに回送された後に解体されてしまった編成。
この時はまだ元気だったのにね。3年前に戻ってもう少し色々と撮っておきたかったなと改めて思ってしまう。まあ3年前はだいぶ病んでいたけどね(笑)。そんな時に気遣って連れ出したなんて恩を売られてもうちは買取りできませんので、どうぞお帰りになってください。ああもうその人死んじゃったんだっけか(笑)。E217系より長生きできなかったか…。
翌日。天気は微妙だけど、成田山開運号として毎年1月に運転される臨時のシティライナーを撮りに行こう。あれ、そういや今年のはまだ1回しか撮ってないな。これはいけない。
当時の記事より画像だけ引用。末尾に貼るのでそちらも是非。令和4年1月29日の同列車においてはAE8編成が充当されていた模様。令和5年・6年のこれは撮影出来ておらず、また令和7年(今年)についても今現在は同じ場所で撮ったものしかない。これはもう将来が心配だ。某氏そんなんじゃ困るんだよぬぁぁぁぁぁぁ!!!
一時期だけ見ることができていた3748編成(2代目)の6両。これの千葉線・千原線運用を撮れなかったのは悔やまれるものの、一応私が育った街の最寄りであるうすい表示を見ることができているだけいいだろう。結局この形態もとても短命に終わってしまったのが残念だし、それこそこの先頭の3741号車なんかはまだまだ使えただろうに…と思うと何だかもうね。3700形ファンとしては一連の事故で計8両の3700形が廃車になっているのはとても残念なことだ。
京急車の快速。今でも別にみられるわけだけど、京成ヲタク的には平成29年改正で土休日にも復活したH台高砂以東運用の79Hなので、こうして撮っておくことができてよかったと思っている。
そんなこんなで楽しい帰省の時間も終わり。どうせ誰にも愛されない人間なので、当時も今もこれからも趣味と仕事に没頭していこうと思う。別に愛されようと思っていないというのはさておき、そういう意味では鉄道畑に就職しなくてよかったのかもしれない。ああ将来が心配な無職ニートキモータヒッキーだから仕事なんてしてませんよハイハイ(笑)
帰りは1階席で帰る。ガキがいっちょ前にグリーン車乗ってて草。たまにだし私のバイト代で乗っているんだしそんなこと言わないでよ運転士さ~ん(笑)。だからその人ももう死んでるんだってば(笑)。これは稲毛に到着するところを撮っていたのだろう。
楽しい時間はあっという間なもので、あっという間に東京に到着。確かこれは東京止で折返しは回送だったっけ。土休日の昼間にそんな運用あったんだ。今も調べたらあるのかもしれないけれど。
当たり前だった景色も、まもなく見られなくなるかと思うともう少し撮ったり乗ったりしておくべきだったなと思ってしまう。それだけ私にとっての当たり前な存在だった訳だけど。E217系も組合報で夏までには廃車が完了する旨の報が出たばかりだけど、なんか本当に寂しくなるなあと思う。ただそれに尽きる。願わくは生首でもいいからどこかしらに保存されてほしいが…無理なのかなあ。E217系が遺した功績も決して小さいものではないと思うし、別にこれといった失敗作や迷車でもないとは思うんだけど。

前4両はY-143編成。この編成はこの約1年後の令和5年2月8日に長野総合車両センターに配給輸送されていった編成。この編成の配給を最後に一旦4両単独での配給はなくなったが、思えば本来であれば私1人で行くところ、配給を追っかけるのを目ざとく嗅ぎ付けた自称友人を待っていたせいでギリギリ私だけ間に合わなかったんだった(笑)。。あれは今でも腹立つな(笑)。
もっとも私が車内に忘れ物をしてそれを取りに行ってさえいなければ間に合ったとはいえ、元はと言えばって話だし、そもそもレンタカー代高速代ガソリン代等を全て私持ちでタダ乗りしておいて礼の一つもないんだもの。今はそういうのと縁が切れてスッキリしているけれどね(笑)。その辺の配給の話もせっかくだから前倒しで記事にするのもありかもしれない。

いいもんいいもん一応撮ってない訳ではないからいいもん!いい…も…ハァ。まだこの時の帰省(このカッツカツ写真および当記事本題の2回)の時点ではそんな悲劇が襲うなんてことを私はまだ知らない。まあ、次の配給こそは長野まで絶対に追っかけたいと思う。

基本編成はY-12編成。この年の8月末に長野総合車両センターに配給輸送されてしまった編成。恐らくだが、Y-12編成に乗車したのはこの時が最後だったことだろう。長いことお世話になりました。

後ろというか隣にもE217系。当たり前だったが故に、もう恐らく見られることもないというのが正直信じられない気持ちだ。願わくはこの頃に戻ってもう少しだけでもいいから撮っておきたかった。もう撮れる場所と運用も限られてきてしまったし。

総武地下2番線にいたのはY-1編成だった。現時点ではこれしか写真がないものの、実家のSDカード等を探せばまだまだ写真はあるはずだ。久しぶりに佐倉市内をドライブしたいという建前で佐倉の実家にもデータを探すべくそろそろ行こうかね。
新宿からはあずさ号で帰っていた模様。どちらに乗ったかは不明だが、基本編成側はS101編成だった。平成27年夏に量産先行車が登場したE353系、もう今年でS101編成とS201編成は10年目だなんて信じたくないでござる…。
ここからは、当時暴飲暴食気味だった私が食べていたラーメン等の話で〆させていただこう。基本的にラーメンに関しては以前も言及したであろう甲府駅前の「家系ラーメン大黒屋」さんでのものだ。マジで美味かったんだよな。また行きたい。
見ているだけで腹が減ってくる。令和6年の1年で10キロ太ったことに危機感を覚えた私は12月から現在にかけて減量中なので、ラーメンも月に3回ぐらいで我慢しているが…また50キロ台に戻ったら甲府の大黒屋にも行きたい。美味しいんだもん。

ニンニクと七味唐辛子追加。やはりニンニクは欠かせない。コロナ禍でマスク社会だから多少なら入れても大丈夫だったし、大学もオンライン授業が8割、対面2割だった上に別に誰かと話す機会もなかったので、そういう意味では気楽な時代だったと思う。大学で学んだことなんて大したことないけど、それはまあ7年前に受験戦争で敗戦していた時点で決まっていた訳で。

夜の公園で一人寂しく夜風に当たりながら飲んでいた酒。夜の冷たい風が火照った頭にちょうどよかったんだよなあ。

最後に飲みかけで申し訳ないが、当時行きつけだった居酒屋でのお通し。美味しかったなこれ、いやこれ以外もだけど。ここのマスターは本当にいい人で、男気溢れる方だった。あそこに通っていた頃も楽しかったなあ。


