おはようございます。こんにちは。最近タバコの回数が減った管理人です。その分1回あたりの喫煙量が増えているので、実質的に何の意味もないです。そんな私がヤニカスになる前の高校生だった頃の写真を消化していきます。
今回の過去画清算は平成28年3月の京急撮影からスタート。一部写真は既に記事に使っている可能性もあるので、そこはサーセン。まあ、元々このブログの過去記事って伸びない傾向があるので、そういう意味では実質初公開か。
後続の快特は1065編成。既に2100形は機器更新が終了していたが、1000形に関してはGTO(ドレミ)とIGBT(悲鳴)の双方が健在だった。ドレミはさておき悲鳴まで機器更新するなんて当時は思ってもみなかった。
そこから蒲田までの1駅は当時からの友人と共にご覧のヘッドマークをつけた2149編成で移動。なんか友人とか某氏とかそういう書き方にイラっとしたな。まあいいか(笑)。ちなみにこの恋愛運が高まりそうな電車に乗ったところで当たり前だけど彼女はできませんでした。4年と3か月したらできたけど(笑)。そりゃまあ私こんな人間性ですから。ブスだし。桐島聡に似てるってバカにされちゃったしなぁ(笑)。
でも京急さんってこんな感じでのラッピングというかイベントも多くていいよね。なんか普段使いでたまたま遭遇した時なんかは嬉しいかもしれない。2100形は関東私鉄にしては珍しい2つドアの転換クロスシート車両だけど、この撮影から3年した平成31年正月の初日号では都営線内でも営業運転を行ったので、いつかしれっとこちらで会えるのも楽しみ。
でも都営浅草線で2ドア転クロは普通に顰蹙買いそう。2100形の後継をどうするのかはさておき、こういう車両で京成線アクセス特急の一部だけでも都営線方面からの有料列車にできたら、現実的な問題は一旦さておいても、悪い話ではない気はする。(日本語訳:すき)
今ではエア急も新逗子の名前も1500形の幕車も1731編成もいなくなってしまいました。嘘つくな。1731編成だけは現役です。もう少しちゃんと撮ってもらっていいですかね。
2133編成自体記事にするのはいつぶりだろう。懐かしいな。そうそう、この時は台鉄さんとのコラボでこんな感じになっていた。当時から台湾には好意的な印象だった私さんが大学生になり台湾にも留学することになるのは、もう少し後のこととなる。この2133編成で上大岡までワープし、確か屛風ヶ浦か能見台かどこかで撮っていた。
目的の1つ。この辺自体はもう記事にしている可能性もあるのでところどころ割愛。1800形って今では京急線内でばかり運用されているけれど、そもそももう8連や12連もやらないんだっけ。77Hのエアポート快特こそ撮れたけれど、81Hは撮れなかったのが未だに残念。なんか似たような感じの性格となる京成新3200形との並びなんか撮ってみたいんだけどな。
というか1800形ってもうそんな前の車両なんだ…(ガクッ)
帰りの1枚。もう一人の友達とも合流して3人で撮っていた思い出。懐かしいな、彼らとも何年も会っていない。昔からの友ほど信頼できる存在もなかなかないし、基本的にそういう人は信頼できる人ばかり。ここ数年での付き合いがどうって言いたいわけではないし、その中にも信頼できる人はもちろんいるけど。僕は本名や顔を晒されてから人間不信です。まぢゃみ。まぢゃみって書くとなんか草。
別日の撮影。3月末の撮影。この時はまだN838編成って旧塗装だったんだね。既にご存じの方も多いかと思うけど、同編成は現在この塗装にリバイバルされている模様。しかしヘッドライトやLED方向幕等の細かい差異はあるので、この姿の完全なリバイバルとはならないはずだけど、それでもアレはありがたい。アリゲーター。本来の旧塗装の時の写真なんて大して撮っていないけれど、N838編成の2代目旧塗装(?)がなくなるまでも、またここ数年でようやく板について来たジェントルピンクについても、しっかりと記録しておきたい。
しかしまあ、京成松戸線ねえ。そのまんまだけど、キラキラネームにならなかったのはちょっと安心した。京成さんその辺は質実剛健だから信じてたけどさ。京成松戸線になってからの車両運用等は気になるが、現状の津田沼駅の配線、また千葉線→上野への列車が既に存在すること等がヒントになるのかもしれないし、白紙改正でいろいろと変わってしまうのかもしれない。新京成の車両のデザインは京成車に合わせるらしいのもヒントなのだろうか。
これもまた別の日の撮影で、春休みながらも部活に行くときに撮っていた。記憶が正しければ朝の定期回送で、土日の方のそれだった気がする。もうAE100形は臨時運用とラストラン全てを終えていたなあ。そして3588編成自身と3500形未更新車の最後の1年も始まっていた。
これはこれは色々と今では見られない並びですね。同年同月の撮影ではあると思うんだけど、何故この時も蒲田にいたのかは不明。何していたんだろう。ああ思い出した、なんか家出してたわ。妹のせいで親父と喧嘩して。家出して電車撮んのかよ(笑)。まあいくら当時の実家に自分の部屋があっても鍵かけたら父親に殴られるような家だったしなあ。もうあんま気にしてないけど。
同日撮影の5300形運転台。うすい→勝田の短い区間だけど乗っていた。その時の編成写真についてはどっかで貼っていると思うので割愛。
あとこれを撮るために飯山満まで行っていた。もっとましな撮り方しろ(笑)。八千代緑が丘は東葉高速さんの車両基地がある関係で一部列車の始発終着駅となる。そして当時と今では東西線の各車両と東葉2000系はROMが異なるので、多分この行先単体表示も見ることができない。
ところ変わってこちらは蒲田での撮影。
Powered by SIEMENSのロゴが懐かしいし、Kawasakiのロゴもかっこいい。
それで確か2451編成の蒲田ローカルに乗って、北品川でこういうのを撮ってたんだっけ。もう少しちゃんと撮っておくべきだった。あと4MTのロリコン(一昔前にこうやって略されていたけれど、旧1000形から流用したロータリー式コンプレッサーのこと。危ない方ではないです。)も堪能させてもらいました。しかしまあ2000形を普通に突っ込むとは…ね。運転士さん大変だっただろうなと思いました。